渓流釣り講習会


釣の講習会ってあちこちでやってますよね。テンカラ、フライフィッシング、ルアーなどなど。こういった釣技術についてのものは。でも、一つの渓を歩きながら、餌の取り方餌の付け方仕掛けのあり方鉤はどうあるべきか、はたまた川の歩き方構え方川のポイント仕掛けの投げ方流し方合わせのタイミングと取り込み方などを具体的に、教えてくれるところってあるでしょうか?

そんなこと、本読めばみんな書いてあるさ。といわれるかもしれませんね。確かに本には書いてあります。しかし、初心者が自分でやっていることと、本に書いてあることの違いを認識できるか?と言われると、多分ノー!ではないだろうか。

というわけで、銀次郎が勝手に命名した釣学校へ出かけることになりました。ここで先生に厳しく教えられると、単に魚釣りということが勉強できるだけでなく、どういう釣が本来あるべきものであるかが、次第に身につくように思う。今回は私が講習会を通じて感じるようになったことを、あえて読まれる方の反撥、批判を覚悟の上で書いて見たいと、左様に思う次第であります。

コノヤロー!それは違うと思うぞ!こら!と思われたら、銀次郎までメールをどうぞ。

3月21日早朝、講習会場目指していざ、出発だ。実は昨夜は興奮してたので、貰い物の焼酎をあおって寝床につくが、ますます興奮して殆ど寝られなかった。普通釣に行くときはぐっすり寝てしまうのだが・・・

高松道を東へ。

鳴門橋で夜明けだ。

兵庫県側は垂水か舞子地区、SanFranciscoみたいだ

約4時間半のドライブで、目指す奈良県東吉野郡天川村の講習会場近くへ着いた。

ここは山岳信仰の里。役の行者と陀羅尼助丸という漢方薬のメッカで有名なところ。 この薬、結構マイルドな効き心地で、常用している人も関西圏を中心に多いようだ。

ここに着くまで師匠から二度ほど電話を頂いた。で、早速、師匠のところへ参上する。講習のスタートは白の平と呼ばれるキャンプ場のあるところの上流からである。  

川沿いに遊歩道があり、橋が掛かっている。まだ雪が!しかたないよね。ここは標高800mだもん。

今日はお彼岸の休日なので、釣り人はそこかしこに陣取っているが、いずれも釣果は芳しくないようだ。実はこの川は3月18日解禁で大放流があった。その僅か3日後だというのに、渓魚は一向に掛からないのである。解禁日は500人の釣り人が入ったとか。前の晩から各所に陣取ったところへ後から割り込もうとする御仁がいたりすると、殴り合いまではいかないまでも阿鼻叫喚の巷と化すのである。釣れ始めると、その場を他人に奪われまいと、そのあたりに構わず糞尿を撒き散らすのだとか。

学習その1:放流されたばかりの魚はド素人でも、子供でもバンバン釣れる。100匹釣ったというケースも珍しくない。しかし、悪魔のような釣り人の凶器から逃れた放流アマゴは数日でメチャンコ賢くなる。川には溜まりに沢山のアマゴが群れを成している。特に岩の下から出たり入ったりしている。しかし、餌には眼もくれない。この現実から何を学ぶべきか?

A:遊魚券を買ったのだから、元を取り戻すという考えは、貧しい。元を取るためだけに必死になって釣まくる。そんなに卑しい釣をするなら、養魚場で年券分のアマゴを買いなさい!数時間前に養魚場から放流された魚を餌付けて喧嘩しながら、醜態さらして釣り上げる。これは馬鹿げていると考えるようでありたい。釣を始めて間もない人が魚を沢山釣りたいと願うのはもっともなことではある。しかし、10年ものキャリアがある人が放流魚を沢山釣りたいと考えるのは、やや、問題がある。

B:遊魚券というものは、川に入らせて貰うための入川料だ。川はお国から漁業協同組合に管理を委託されているが、お国は漁協などに援助金なんか払わないから、漁協としては何とかして現ナマを稼ぎ出して川の管理と整備をしなければならない。それが面倒臭いと思う漁協は一切何もせずにほったらかしだ。キチンと渓魚を放流して川の管理を厳しくしている漁協のある河川は数少ないだろう。釣り人は美しい渓に身を置くことで大いなる恩恵を受けているわけだから、遊魚券は税金以上に大切な支払い義務の一つだと考えて欲しい。きちんと管理された川に入るだけで金取ったっておかしくないと思う。有料の公園だと考えれば判りやすいのではないだろうか?広いエリアの清掃をしたり、川へ入るための道を整備したりすることを考えれば、当たり前ではないだろうか?豊かになった日本人にとって、僅かな金であろう。1年間も遊べる公園の入園券だと考えようではないか!

C:もっと渓魚を大切にしようではないか!アホみたいに釣まくるのではなくて、折角放流した渓魚は数ヶ月かけて、渓流魚のDNAに引き継がれた本来の姿を取り戻すまでほうっておくべきだと私は考える。それで渓流魚が賢くなって釣れなくても、それはアンタの腕が悪いのさ。という風に考える釣り人ばっかりになれば、おそらく放流の翌日に馬鹿釣する釣り人はいなくなるだろう。ネイティヴに戻った鋭いアタリをする、ため息の出るようなアマゴを釣るほうがよほど面白いのではないか?現代日本人には釣という類稀なアウトドアのリフレッシュメント(楽しみ)に関する文化と理解が圧倒的に欠如している。 哀しいけれど、これは日本人の拝金主義とべったりと張り合わせになった低劣な品格を国民の多くが身につけてしまった結果と言うべきだろう。川に入る駐車場にオヤジがいたので聞いてみた。「釣ですか?」ってね。帰ってきた答えはこうだった。「いや、今日は釣と違います。解禁の日にきたんやけどね。3人で来て150尾釣りましたわ。(と、言いながら首を傾げたりして得意そうなポーズをとる)3日も経ったら釣れしまへんやろ?あきまへんわ」何う〜て、けつかる。あかんのはお前ぢゃわ。放流直後のナイーヴなアマゴを星の数ほど釣ったって、腕が上がったわけではない。釣り人の人格・品格が低下しただけの話だ。

なぁ〜んて、えらそうなことをほざいている私ですけど、実はつい最近までこういう現実に気づかず、放流したという情報が入ると心が騒いだのである。でも、もう決して解禁の放流目当ての「解禁ジジイ」とはさようならの決心がついた。 

これを読んだ方が一人でも二人でも、解禁と放流の釣ということに眼を向けて精神的な上級釣り人になってくれることを望みます。それが我が国民性を少しでも上等なものにする一つのヨスガとなると信じているからです。

師匠に聞いて、放流していない場所を教えてもらった。美しい渓だ。

今回の初アマゴだ。

この渓で美しいアマゴが3尾掛かった。放流ものではないピンとした赤みが縁を彩るヒレを持ち、はげてないウロコと明確なパーマークスのアブラヒレ族だ。 

今回は仲間と3人で、コテージに泊まって自炊しながら釣を楽しむ計画だった。川とは、釣とは、人生とは・・・色々考えながら。イザとなると皆さん都合が悪くなって、またしても一人旅となった。それで良いと考えた。でも、一人でコテージを借りるのは却って高くつくし、何かと迷惑を掛けるので馴染みの旅館に泊まった。この町、洞川は温泉地でもあり通りに沿って旅館が立ち並んでいる。馴染みの旅館には3月らしくお雛様が飾ってあり旅情に華を添えてくれた。

ぼんぼりのような・・・

この宿を根城にする講の名が掲げられている。

あでやかなお雛様

洞川の夜・・・静かに更け行く。


二日目は餌取りから始まった。午前6時〜7時まで川に入る。冷たい!!手が切れる〜。ホントに切れたら大変だ。師匠の家の裏に虫床が作ってあって、そこの石を持ち上げて裏からヒラタカゲロウの幼虫を取る。大きな石ほど大きな虫が付いていることが多いようだ。で、欲張ってなるべく大きな石を持ち上げようとすると腰に来るからそのバランスが大事だ。

学習その2: 渓魚は何を餌にして釣るべきや?

餌についての議論は尽きることがないだろう。実際、解禁当初は誰でもイクラが良いという。いや、ぶどう虫だ。ミミズだと賑やかである。しかし、渓魚の胃袋を見ると、食べているのは殆どが川虫だ。小さな川虫の足や羽みたいなのがギッシリと詰まっている。虫の居ない川にはアマゴがいないことのほうが多いくらいだ。虫がいっぱい居るのにアマゴが釣れない川は、釣り人が多すぎる川だ。川虫でも硬い体をしたものは渓魚が食わないと師匠は言う。要するに渓魚の餌は柔らかいものが良いということになる。ぶどう虫でなくてもウドンで十分釣れるのではないかと銀次郎は類推しているが未だ試したことはない。 大雨が降った後の薄にごり状態ではミミズが最高の餌だという一般論がある。本当だろうか。 確かに川の水が濁っていると、川虫みたいな小さい餌は魚からは見えない可能性はある。それならぶどう虫でも良いはずだ。雨の後、ミミズかぶどう虫かはまだどっちの勝ちか実験していない。まことしやかな一般論は当てにはならぬ。おそらく大型の川虫が一番なのではないだろうか?岩魚の最高の餌はブナ虫だという話は説得力がある。真夏に熊笹の芯を歯でかんで二つ折にすると岩魚が飛びつくともいう。ブナ虫と間違えるからだと。

これらの事実は何を物語っているのだろうか?

A:兎に角、川虫探しが一番ではないだろうか?面倒くさいし、手間が掛かる。冷たいし、腰も痛む。でも、川虫だ。第一餌代無しに餌が手に入るし、釣具屋の開店時間を気にする必要もない。川虫が取れなくて釣れなければそれは、それで良しとする心のゆとりも必要で、それがいらぬ怪我から身を守ってくれるかもしれないではないか?同じ場所で、川虫とミミズで釣ってみれば、川虫が有利なことはすぐ判る。川虫を鉤につけると、餌と鉤が一体化するから非常に小さな仕掛けになる。一方、大きなミミズを鉤につけるとたとえ、ミミズ通しを使っても、魚がどこをクワエルか判らない。アタリに対するレスポンスの良さがまるで違うのだ。殆どのミミズを使う釣り人は川虫を取る時間が勿体無いというのが、その理由だ。確かにいかにも良型の渓魚が潜んでいそうな、流れを見て心は焦る。だからこそ川虫を取って心を落ち着かせるのが大切なのではないか? しかし、ふと思う。ウドンで釣れないものかと。動かないブドウ虫と讃岐ウドンとどっちが旨いか?一度アマゴに問うてみたい。結論的に言うとなんて、えらそうだけど、どうも人間はまだ、渓魚の野生を解明し切れていないということではないか?で、謙虚に色んな餌をプレゼントしてみて、その時々でフィットする餌に頼るしかないのでは?これは絶対といえるまでには渓魚を解明し得ていないし、一般的な傾向を示唆する以上ではないように思える。最後になって歯切れが悪いのはお許し願いたい。


三日目の朝も川虫取りから始まった。6時から虫取りだ。いやぁ寒いし、冷たいよぉ〜。ウェーダーについた水がいつの間にか凍っている。何がツルツルしてるんだと思うと膝についた氷だった。でも、素晴らしい川虫が沢取れると寒さも感じなくなるから不思議だ。沢山木の餌箱に入れて出陣だ。今朝は早くから兄弟子ならぬ姉弟子の登場だ。姉弟子も沢山虫を取っていた。オイラよりだいぶ、虫を取る業も、釣る技も上手だった。

 これは実は二日目の昼飯。まともに食べてる暇がないと見ての準備だった。

 お、岩魚!と銀次郎

姉弟子と綺麗に口から鼻に掛けたニジマス。

 

師匠が大岩のエグレから引きずり出した岩魚

大淵を探る銀次郎。腰の魚篭が垂れ下がってるのに注意

魚篭の中身。午前中の釣果

ここはザイルやロープを使って挑む場所でもないし、道路からすぐそばの渓だ。人も多くはいる場所だけに魚はスレている。でも、こうして強敵を仕留めて釣技を磨く絶好の場所だともいえる。生まれて釣り針を見たことも、聞いたこともない(?)源流の渓魚を釣っても、おそらく釣技は向上しないであろうし、誤ってその渓固有の種を絶滅させてしまうかもしれない。厳しい渓は人を寄せ付けぬし場合によれば命取りになることもあろう。命と引き換えの釣などはあり得ないとする我が師が源流における釣を好まぬ由縁でもある。 


学習その3 :渓魚に如何にしてアプローチするか・・・

渓魚に対する構え方というべきだろうか。兎に角、静かにひっそりと近づく。余分な動きは禁物。相手は名うてのスレッカラシの放流魚だ。体をかがめて、相手に気づかれないように低く、低くだ。ポイントを見定めたら正確な打ち込みが必要だ。いい加減なところへ放り込んで仕掛けを引き上げたりすると、すぐに気づかれるので、そのまま流す。余り何度もそんなことをしていると、場が荒れるだけなので、慎重さが欠かせない。目印のブレには特に注意を要する。ブレていると微細なアタリを見逃してしまうからだ。根掛かりには絶対注意だ。根掛かりすれば場が荒れ放題。私の釣りはヘボで、場を荒らしてばかりいて魚を逃している!と師匠。竿が柔らかすぎると目印がぶれる。自分の竿は柔らかいので、プルプルと目印が揺れてしまう。師匠の目印は殆どブレがない。 

何を学ぶか?・・・要するに自然に正確に餌を流すということに尽きる。そのために体を鍛えてネコのようなしなやかさを身につけること、仕掛けを任意の場所へ正確に投げる練習をすること、握力を鍛えて竿先のブレを押さえることである。


我々初心者は、年に一回くらいこうして釣の基本をおさらいする必要があると思う。良き師匠、仲間に支えられて少しでも上等な釣師を目指して年甲斐もなく励みたいものである。今回は本当に図らずも釣合宿のようになったが、こうした企画をしても良いものだと思う。なかなか、自分の意見に賛同してくれる仲間を探すのがまず大変なことではあるが。おわりに、師匠、姉弟子に深く感謝する次第である。

跳源坊師匠五十有余歳、アメノウオ職漁師だったこともある。


   
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