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-食べ物そして音楽(2)-
実は今日は、モンタレー水族館でのジャズフェスティバルだ
本番のモンタレージャズフェスティバルは9月中旬だが、前哨のフェスティバルが今日開かれる。
可愛い娘とでも聴ければ最高なんだが、Sとじゃなあ・・・やんなっちゃうよ。チケットあんだけど行く?ってSに言ったら、”おお、いきまんがな、いきまんがな”だって!
モンタレー・アクエリアムは薄紫の暮色にゆったりと沈んでいる。何ヶ所かで演奏が出来る様にステージと椅子が並んでいる。知る人ぞ知る、音楽会なのだ。
10メートルもある大水槽にはケルプが風に吹かれる大木の様にゆったりと揺れていて、大小様々な魚たちが、青いカクテルライトをまとって人間達を睥睨している。
落ち葉の様にハラハラと斜めに下降しながら回転するアジの群れ。馬蹄型の無気味な口から鋭い歯をのぞかせてガラス玉の意志を殺した目を光らせるサメ。間違いなく本物の海が眼前につかみ出されている。ここは、海の生き物達の世界だ。ジャズの始まる前から、聴衆は固唾を呑んでいる。
アンディ・ナレルが魚達をぎっしり詰め込んだ巨大な水塊を背景に立っている。何年も一緒にやっているギター奏者を従えて。
どこか、他界した天才F1レーサー、アイルトン・セナを髣髴させる風貌だ。年齢もほぼ同じで鋭い視線、柔らかそうな体全体がリズムに乗って揺らめく様を見ていると、ある波長をもったメディアを本能的に表現することによってしか、見る者、聴く者を酔わせる事はできないのではないか?という直感が刹那的によぎった。要するに、森羅万象、物理的な存在は固有の振動数を持っている。逆数である波長も存在に関して一意となり、畢竟、音波の集合としての
”演奏”もその埒外にはない。聴衆の心(やはり、一定の波長を基盤として振動しているだろう)と共振する時間が長いほど感受性のインピーダンスが下がり、より大きな感動が得られるのではないだろうか?
ジャズでも例外なく、基本となるビートに絡む半音階を主体としたアドリブ・フレーズのブルーな音程、シンコペーションなどの時間的な揺らぎが、”快適周波数”の連鎖を構成した時に聴衆の脳波に共振して、快適ホルモンを分泌させる。
本能的であれ、後天的な努力の結果であれ、そういった音場を作り出せるか否かがジャズメンとしての価値を決める。
しかし、聴衆が快適ホルモンを湧き出させるか、脳波が共振するかどうか、半分は聴衆の側の物理的な成り立ちに負うのだから、ジャズの成立は情報の発信側と受信側との双方のコラボレーションによると言える。
芸術は全て、同様なメカニズムで成立してはいまいか?
つまり、送り手と受け手で決まる評価関数の値は常に相対的でありつづけ、片方だけによる絶対的な存在とはなり得ない。絶対芸術が存在しないと同様、絶対評論もあり得ない。芸術が時代によって評価が異なるのもその例の一つに過ぎない。
ま、どうでも良い話だが、アンディナレルのスティール・ドラムはいろいろ余計な事を考えさせるに十分な程、暗示的だ。スティールドラムという楽器の性格上、音色はカリブ海を思わせる明るいものだが、彼のアドリブにはどう聴いても哀調がこもっている。それがギターとも良くマッチする。
正直言って、スティールドラムなんて楽器には大した期待はしてなかったし、アンディ・ナレルなんて知らなかった。期待を遥かに裏切る名演奏と言って良く、すっかり彼のファンになってしまった。
Sが、ナレルにインタビューしたところでは、この楽器を始めて30年になる。ニューヨークで父親が落ちこぼれた人達の社会復帰の手助けを行っていたとき、カリブの海賊ならぬ、ギャング達が家によく来ていて彼等から習ったという。別のセッションではナレルがキーボードを弾いたが、とても端正なプレイでスティールドラムという楽器、成る程、出鱈目弾けるものではないことが良く判った。
帰宅はとうに夜半を過ぎていた。帰りの17号線のドライブは、ナレルの音楽性のおかげで、Sがドライビングに集中することが出来ず、それ程寿命を縮めるものとはならなかった事、誠に神に感謝すべきものであった。(April/19/2004)
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